先日ある会合の講師さんが、おもしろい話しをされ一寸考えさせられました。

以前(2〜30年前)には、若い人達の中に合言葉として「矜持(きょうじ)」と「含蓄
(がんちく)」と言う言葉があった。今は多分死語になってしまいましたが、要は「誇
り」と「恥じらい」と言う意味合いの言葉です。
若い人の矜持は大人から見れば生意気、だがその生意気の中に不安があり、そ
の不安が含蓄で若者をはじめ大人でも、その間で気持ちが揺れ動いている。しか
し「矜持」と「含蓄」彼らの人間としての魅力の根源であり、それを常に維持してい
る人は魅力的な人でもある。若しこう言う意識のない人は何処となく人間的にも余
り魅力を感じないし、毒にも薬に意もならない凡人か、何か一物を持った付き合い
にくい人種でもある。
又、歳をとるに従って「矜持」は「尊大」へ、「含蓄」は「厚顔」へと変化しやすい。政
治家をはじめ役人上がり、会社の偉い人の顔を思い浮かべてみると、良くわかる
そうならずに自分を健全にしてきた人は、生まれた性別に関係なく格好の好い。
威張らず、卑屈でもなく、明るく恥を知ることをわきまえており、人間的魅力があふ
れて付き合っていても気持ちよい。
こういう方々は殆どが無名で、周りの人から一目をおかれて暮している。こう言う
方が自分の身近に居ると、その周りの人々は何かにつけて自然に其処に集まっ
てくる。こうした人々は最近少なくなって来たが、これが少し前迄の日本人の美徳
であり、社会を支えていた根源だと思う。
こんなような講演内容でした。

今の世の中にはこんな話は通用しないかもしれません。
言われてみれば我々の育った時代はこんな事は当たり前、子供達の遊びの中や
周辺の大人達から自然に学びとり、意識をせずに身に付けて育ったものでした。
勿論その言葉を会得しても実践をするとは限りありません、その個人個人の置か
れている立場や環境によって、受け入れを考えれる人拒否する人、様々であるこ
とこそ人間の本性だと思います。
今、現役世代の人々はどちらかと言えば、そんな観念的な話より目の前の現実に
対応する事が目一杯で、多分、頭で分っていても気持ちが受け入れられないのが
本音ではないでしょうか。それと全部と言いませんが、昨今のような競争社会を生
き抜くために、物.金本位の文明の中で教育を受けて、余程でないと自己本位を犠
牲にして迄の余裕が生まれる土壌が無い社会構造が、一層拍車をかけていると
思います。
本来の日本人思想としての「恥じらい」の謙虚さや、相手に対する思いやりの寛
容さ、そう言う奥ゆかしさの基本は、教育と教養の区別が本質的に生活に密着さ
れてなく、理解されていない事が、大きな一因になっておるように思います。
例えば教育は頭で知識として覚える、教養はその中から体で実践しながら覚える
私は此の違いではないいかと思ます。今の世の中は知識優先、何でも試験に通
れば良しその先は何でもあり従って狭義の受験勉強(技術)が教育の根本にな
っている。その先の教育から生まれる教養は、その本人が切磋琢磨して、自然
に体で会得する事によって初めて教養として活きて、本人の人格を現すと同時
に、その値打ちが生まれて来ると思います。それには幼少時から親は勿論、周
辺の人々から、色々と教えを請えるような環境を整えて、学問ばかりでなく日常
の躾、常識を教えて貰う事が大切だと思います。
社会に出て仕事を覚える事も同じ、今は就職をすれば社員教育といって、微に
入り細にわたり会社人間としての教育をいてして貰えますが、これはこれ、此の
中から何を学びとり自分自身の考えに基き、体で仕事を覚え道を開き、自分を
磨く事によってやがて一人前と世間から認めて貰えるようになります。其処に近
つこうとする努力する事こそ教養だと思いますし「矜持」と「含蓄」の実践でもあり
ます。
そうする事で人間の度量と人格が、自然に備わってきます。折角この世に人生
を貰った以上、少なくとも生きている間は自分を大切にして、その中から周りの
相手にも己を尽くす気持ちを忘れずにする事によって、自分が活きて又相手に
も認めてもらえ、自然に世の中の一員としての立場が備わってきます。そうして
人生に感謝をしながら暮しては如何でしょうか!










NO-08-200-54
120-05-30 編集

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